しまねの職人

【雪舟焼窯元】「外を見て作るな、中の景色を見ろ」師の教えを貫き、機能美を追求する

~じっくり寝かせた土と自作の道具から生まれる、使い手に寄り添う道具~

Vol.56

雪舟焼窯元 福郷 徹さん

島根県益田市の歴史を背負い、昭和の再興から今日まで「雪舟焼」の炎を守り続ける二代目・福郷 徹(ふくごう てつ)さん。
京都や備前での厳しい修行を経て、益田の土と向き合い続けてきた福郷さんの言葉には、職人としての矜持と、土地への深い愛着が込められています。
雪舟焼窯元二代目・福郷 徹さんにお話を伺いました。

雪舟焼窯元について

雪舟焼がこの益田の地で始まった経緯を教えてください
もともとこの益田には、江戸末期から『九州の肥前から陶工が来られた「白上(しらがみ)焼」』という、磁器を焼く窯が2つ、「喜阿弥焼(きあみやき)」という土物を焼く窯が1つありました。九州の肥前から陶工が来られていたのですが、昭和17年頃に戦争の影響ですべて途絶えてしまったという歴史があると聞いています。

ですが、益田には非常に質の良い土があり、釉薬(上薬)も日本で二番目と言われるほど綺麗なものが取れます。これほどの原料がありながら窯業を絶やしてはいけないということで、私の父(初代不徹「昭和38年徹に改名」)が窯業の復興の為に、昭和24年、窯を築きました。それが雪舟焼の始まりです。
私は修行から帰り、昭和48年に初代と同じく、「不徹」の名を継ぎ、平成13年、「徹」の名を継ぎ、二代目として歩み出しました。
京都や備前で長く修行をされたそうですが、当時はどのような環境でしたか
京都府立陶工職業訓練校を出て、京都の「朝日焼」で3年、その後「備前焼」の伊勢崎家で修行しました。京都では、当時は古い徒弟制度が残っていて、手取り足取り教わることなど一切ありませんでした。

京都では、3年間いても土をいじったのは1年半あるかどうか。
夜、仕事をする際に、師匠からは「仕事を見るのは許すが、一切、話ししかけるな」と言われ、釉薬の調合も、職人が自然に仕事をしている様子を「目で盗む」しかない。
備前では、登り窯を焚き続けるための体を作ることから始まりました。そうして「見て盗み、身体で覚える」という修行を重ねて、益田に戻ってきました。

ものづくりについて

お茶盌を作る際、特に意識されていることはありますか
京都の師匠に言われたことは、「外を見て作るな」ということです。ちゃんと自分の技術ができていれば、自然に「中の景色を見て」やれば、外の景色もそのようになるはずだと。

・茶筅(ちゃせん)が立てやすいか
・飲んだ後のふくよかさを掌(てのひら)で感じていただけるか
・口当たりが良いか

この3点は徹底して叩き込まれました。同じことしか言われませんでしたね。

修行時代、師匠が乾かして置いてある茶盌を、夜中にこっそり手に取ってみたりもしました。「どこが違うんだろう、なぜなんだろう」と、その力強さやふくよかさを探るんです。頭で理解するのではなくて、目と手、身体で理解していく。それしか方法がなかったのですが、そうして覚えた感覚を今も形にしています。
急須など、実用的な器を作る際に一番神経を使うのはどこですか?
急須で言うなら、とにかく「注ぎ口」です。お茶を注ぐ口が一番大事で、ここが垂れるようでは駄目。口の作りには一番神経を使います。それと、使う人の手の大きさは一人一人違いますから、誰にでも持ってもらえるような大きさを意識しています。

単に綺麗だからと置いておくだけのものではなく、やっぱり買ってくださった方の手に渡り、使ってもらうことで、3年先、5年先にだんだんと「生きてくる」。味がついて、新しい世界を持ってきてくれるような、そんな作品を作りたいんです。
道具もご自身で作られると伺いました
父が使っていた道具もありますが、自分なりの道具も作ります。山に登って、ツツジの小枝や桜の小枝を取ってきて、そこから自分でヘラなどの細工道具を削り出すんです。自分の手に馴染む道具を自分で作るというのも、修行時代から続く習慣ですね。
先代(お父様)は、福郷さんの仕事をどのように見ておられたのでしょうか
父は本当に何も言わない人でした。私が修行から帰って2、3年経った時に一度だけ、「それなりに作るようになったかな。これなら安心かな」と食事の時に言ったんです。覚えているのはそれだけ。それ以降も、褒めることも貶すことも一切ありませんでした。師匠や親というものは、そういうものなのかなと思います。

雪舟焼窯元のこれから

これからの活動について、今どのような思いをお持ちですか
私は今、77歳ですが、この指が動く限りは続けようと思っています。息子は自分のやりたい道へ進みましたので、私がじっくり寝かせてきた土も、私が生きているうちに使い切ることになるでしょう。

私のこだわりは「土の匂い」です。陶器は、手に取った時に土の匂いがしないといけない。そのために自分で土を探し、じっくりと寝かせます。寝かせることでカビが湧き、独特の甘い香りがしてくる。そうして初めて良い作品になります。土は捨てるところがありません。一度焼いた素焼きでも、粉にしてまた土に混ぜれば作品として生まれ変わります。益田の土地がくれた素材を大事にしながら、これからも土に向き合っていきたいですね。

今回の取材で最も印象に残ったのは、福郷さんが語る「時間」の捉え方でした。

工房の奥には、初代から大切に守り続けてきた登り窯があります。
かつては、この登り窯とガス窯を使い分け、お客様の細かな要望に合わせて焼き方を選んでいたといいます。
登り窯は、2018年頃まで現役で炎を灯し続けてきました。現在はガス窯へと制作の場を移されていますが、そこには効率化だけではない、時代のニーズに寄り添い続けてきた職人の柔軟な足跡が刻まれています。


良質な土を求めて自ら山を歩き、手に入れた粘土を「じっくり寝かせる」という工程。
カビが湧き、甘い香りがしてくるまで数年単位で待つその時間は、効率を優先する現代の価値観とは対極にあります。
また、修行から帰って2、3年目にようやく先代からかけられた一言のお話からは、職人の世界における「認められる」ことの厳しさと、それを受け止める福郷さんの静かな覚悟が伝わってきました。

「外を見るな、中を見ろ」という師の教えは、単なる技法の話ではなく、物事の本質や誠実さへの向き合い方を指しているように感じます。自ら山でツツジや桜の小枝を切り出し、道具を削り出す。
注ぎ口の一滴にまで神経を研ぎ澄ます。そうした、使い手からは見えない「目に見えない仕事」の積み重ねが、雪舟焼のふくよかな形を支えています。

77歳となった今も、土地の素材を慈しみ、指が動く限りは土を捏ね続ける。その淡々とした語り口の奥にある、益田の伝統を繋いできた一人の職人の思いを、この記事を通じて少しでも感じていただければ幸いです。

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