しまねの職人

【石見根付】猪の牙に「気配」を宿す、挑み続ける職人

~「冒険」ではなく、未知へ踏み込む「挑戦」の美学~

Vol.54

石見根付 田中俊睎さん

着物の帯に巾着などを下げるための留め具、「根付(ねつけ)」
江戸時代の人々にとって、その小さな細工に自分のこだわりを込めることは、毎日のささやかな楽しみでした。

そんな根付の文化が、島根県江津市で「石見根付」として大切に受け継がれています。
今回は、会社員として勤務をしながら、独学で根付作りを始めた職人さんのもとに行ってきました。
石見の自然と向き合いながら生まれる、手仕事の物語を伺いました。

「ない」からこそ、あるものを活かす

石見根付とはどんなものでしょうか?
「根付というと象牙のイメージがあるかもしれませんが、石見根付はちょっと違うんです。昔、この地方には都会のように象牙なんて入ってこなかった。だから、身近にあったイノシシの牙を使った。それが始まりなんです。」

「ない」からこそ、あるものを活かす。それが石見根付の原点です。猟師さんが獲ったイノシシの牙、海岸に流れ着いた木や海松(うみまつ/黒珊瑚)。石見根付は、そうした自然の素材を大きな塊から削り出すのではなく、素材そのもののカーブや形をそのまま活かして作られます。

「この牙の曲がり具合なら、カエルが潜んでいるように見えるかな、とか。素材の形の中に、生き物をどう納めるか。制約があるからこそ、面白いものが生まれるんです。」

かつてこの地の名工・清水巌(しみず いわお)が確立した、「毛彫り」や「浮き彫り」といった繊細な技術。それは、地元の素材を愛し、最大限に輝かせるための工夫でもありました。

「これならできる」直感から始まった二足のわらじ

石見根付の職人になったきっかけについて教えてください
ある時、有名な作家の根付を見て、「これなら自分にもできるんじゃないか」と直感したのだそうです。

「当時は会社勤めをしていて、高価な根付には手が出せなかった。だったら自分で作ってしまおうと。家に帰って、庭の椿の木を切って見よう見まねで作ったのが最初です。」

そこから、昼は会社員、夜と休日は職人という二重生活が始まりました。「8時間働いて帰ったら、そこからは自分の時間。気持ちをパッと切り替えて、プロのつもりで彫刻刀を握っていました。」と田中さんは振り返ります。

しかし、「できる」と思った自信は、奥深い根付の世界を知るにつれて、高い壁へと変わっていきました。 「最初は簡単にできると思ったけど、やっぱり10年はかかりましたね。ただ形にするだけじゃダメなんです。使う人の手触りや、紐を通した時のバランス。それが見えるようになるまで、長い時間がかかりました。」
石見根付の制作について工夫されている所を教えてください
自然の牙や木には、傷があったり、欠けていたりするものも少なくありません。 「普通なら『これは使えない』と捨ててしまうでしょう。でも僕は、その『欠け』をどう活かすかを考えるんです。」

欠けた部分を岩場に見立てたり、虫食いの穴を風景の一部に取り込んだり。素材の「欠点」だと思われていた部分を、その作品だけの「チャームポイント」に変えてしまう。

「最初は下絵を描くけれど、彫っているうちに全然違うものになったりするんですよ。素材が『こうなりたい』と言ってくる声を聞きながら、形を変えていく。それが面白いんです。」

設計図通りにはいかない、素材との真剣勝負。そのライブ感こそが、石見根付の躍動感を生んでいるのかもしれません。

計算された「冒険」より、失敗を恐れぬ「挑戦」を

制作している上で大切にされていることを教えてください
「僕はね、『冒険』と『挑戦』は違うと思っているんです。冒険っていうのは、実は計算づくなんですよ。南極に行くのだって、しっかり準備をして、計算をして、無事に帰ってくる算段をつけて行く。それは失敗しないための行動です。でも、僕がやりたいのは『挑戦』なんです。」

田中さんの言う「挑戦」とは、成功するかどうかわからない領域へ踏み込むこと。 時には、見る人を驚かせる仕掛けを施すこともあります。

「上下をひっくり返すと別の顔に見えるように彫ったり、コンパスを使って線の長さが違って見える『錯覚』を利用したり。人間は、ただ綺麗なものより、驚きがあるものを喜ぶでしょう?」

予定調和を嫌い、常に新しい形、新しい表現を模索する。「ここで止めるか、それとももう一歩踏み込んでみるか」失敗して素材がダメになるリスクを背負ってでも、その一歩を踏み出すのが田中さんのスタイルです。
これからの作品づくりについての想いをお聞かせください
「最終的には、どれだけ省けるかだと思うんです。リアルに彫り込むことはできる。でも、いらないものを省いて、丸みを帯びた形の中に、その生き物の命や気配を感じさせる。例えばウナギなら、あの『ぬるっ』とした感じを、形だけで表現する。どこまでいっても終わりはないですね。」

田中さんは、少し遠くを見るような目で語ります。

「いつも思うんですよ。『今度こそ、今度こそ』って。一つ作り終えると、満足するよりも先に『次はこうしたい、あそこはもっとこうできたはずだ』というのが見えてくる。だから、『今度こそは』と思ってまた次に向かう。その繰り返しが、今の私の作品なんです。」

「会社に行っている間は休憩時間だった。」そう笑って話す田中さんの横顔は、とても楽しそうで、まるで少年のようでした。

しかし、その手から生み出されるのは、計算された「冒険」ではなく、未知へ踏み込む「挑戦」の結晶です。イノシシの牙という、一見すると不揃いな素材の中に、命の気配を見出す眼差し。それは、効率や正解ばかりを求めてしまいがちな現代の私たちに、「本当の豊かさとは何か」を問いかけているようでした。

石見根付という小さな世界に込められた、果てしない宇宙。その入り口を、この記事を通して少しでも感じていただけたら嬉しいです。

プロフィール

  • 石見根付
  • 〒695-0016
  • 島根県江津市嘉久志町イ1902-2
  • 【TEL】0855-52-5855

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